司法書士ジャーナル
橋本司法書士事務所ブログ

その他

11月 13 2012

私の履歴書⑥ アメリカ大陸横断(1)

さて、そろそろ学生時代は終わりにして、次のエピソードに移ろうと思いますが、前にも話したように、私はサラリーマンを経験していません。ですから就職活動のエピソードというものがありません。結婚と並ぶ人生の一大イベントの経験が無いのは、この年になってみると、非常に残念なことだと思っていますが、その代わりに、恐らく他ではあまり経験できないイベントを経験していますので、それについて話してみようと思います。

私は旅行が国内・海外含めて好きなので、いろいろなところに行っています。その中でも特に強烈な体験として記憶に残っているものを、これからお話します。それは、自動車によるアメリカ大陸横断です。

私はアメリカに語学留学に行っていたことがあります。まずハワイに行って、そこでしばらく海外生活に慣らしてから(いざという時に日系人が多いから)、その後、アメリカ本土に留学しようと計画しました。

当時は80年代後半で、まさにバブル真っ盛りの時代です。日本の留学生が世界中に進出していて、どこに行っても日本人だらけという、今では考えられない様子でした。学校も8割以上が日本人という、正直、何をしにきたのか分からないという状態で、そのまま日本が移動してきたみたいでした。

その中で、一人の日本人と知り合います。彼が大陸横断のきっかけになるのですが、慶応の医学部大学院から派遣されてきた医者で、ハワイで語学研修をした後、東海岸のハーバードに留学が決まっているというエリートです。彼が西海岸のサンフランシスコで学会があるので、そこから東海岸のボストン(ハーバードのある街です)に行く時に、一緒に車で大陸横断しようと誘ってくれたのです。

当時は私も若かったので、こんな無茶な提案に「面白そうだ!」とのってしまいました。もちろん実際に面白かったことは間違いないんですが、長期間2人っきりで車に乗り込んで移動している訳ですから、時にはケンカもします。行きたいところで、もめることも何回かあったのを覚えています。

全行程は約2週間、最短距離でボストンまで行ったら、もちろんそんなに時間はかかりません。確か3~4日もかければ着くはずです。しかし、せっかく行くからには、いろいろ寄り道をして見て回りながら行こうという気持ちになるのは自然の成り行きでした。それも期間は決めていたけど、コースは行き当たりばったりで出発しました。

この大冒険のおかげで、アメリカの道路地図を見るのは、かなりベテランになった自信があります。交代で運転しながら、片方はナビゲーターをしていましたから、嫌でも覚えます。最終的には、始めて行った街でも、かなり細かいところまでドライバーを案内できるようになりました。(当時はカーナビというものは、まだありません。場所は自分で探すしかない時代です)

実はアメリカの住所というのは、日本と違って非常に合理的に分かりやすく出来ています。自分で車を運転してみて、つくづく分かったのは日本の道路や住所がいかに分かりにくいか、ということでした。日本で同じように道路地図だけで縦断しようと思ったら、かなり困難なことになるでしょう。

まずアメリカの場合、住所が分かればピンポイントで建物の場所まで分かる構造になっているのです。アメリカの住所は全てが通りの名前で表示されています。「~アベニュー」とか「~ストリート」とか「~レーン」などです。そして通りの名前の前に地番の数字がきます。「220キングストリート」のようになります。そして重要なのは、この地番が必ず建物の番号になっているのです。

日本のような「~丁目」という概念はありません。しかも、地番は偶数か奇数かで、通りの右側にあるか左側にあるかが決まっています。ということは、地番を見れば、車に乗りながらでも、左に注意すればいいか、右に注意すればいいのかが分かるということなのです。これは日本の住所しか知らない人間にとって、感動的に良く出来ているシステムだと思います。

しかも建物には、車からでも視えるように、かなり大きな文字で地番が書かれているのが一般的です。だから、通りの名前さえ地図で調べられれば、ほとんどの場所には行くことが出来るわけです。(地図は通りの名前が検索できるような作りになっています)

11月 01 2012

私の履歴書⑤ 学生時代(4)

さて学生時代の、もう一つの課外活動と言えばアルバイトでしょう。実はアルバイトに関しても、私はクラブ活動に関係のあることをやっていました。ゴルフに関係あるアルバイトと言えば、そうキャディです。

いろいろなアルバイトの経験のある人でも、キャディをやったことがあるという人は、かなり少数派なのではないでしょうか。そういう意味では良い経験をさせてもらったと思います。(当時は大変だと思っていましたが)

実はキャディという仕事は現在は少なくなっています。セルフカートと言ってプレイヤーが自らカートを動かしてプレーするのが標準になってしまったからです。今だとキャディ付きでプレーする人は、お金持ちか会社接待かしか残っていないかもしれません。しかし、私の学生時代はセルフプレーは、ごく少数で、一般客はキャディ付きでプレーするのが当たり前でした。

所属していたサークルがコネのある福島県のパブリックコースがあって(那須国際カントリークラブと言います)、そこでは、土日の客が増えた時に増えた分を学生アルバイトキャディに任せていて、毎週末に希望部員を募集しては行っていたのです。

前にも書きましたが、ゴルフコースは大人の社会です。学生だからと言って甘えは許してくれません。お客さんはアルバイトキャディだからと大目には見てくれませんので、粗相があれば容赦なく苦情が入り、後で叱られます。そういう意味で緊張感のある仕事でした。

キャディと言うと、当然、コースに詳しくなければなりません。お客さんからコースについていろいろ聞かれますから。でも1年生のころは何も知りませんので、先輩から受け継いだコース攻略法のメモがあって、それを必死に覚えます。もちろんキャディをやっている最中にも持ち歩いて、時折、盗み見をしながら質問に備えたりします。

このメモが良く出来ていて(何年もかけて作られたものですから)、次のショットに有利なポジションとか、グリーンの芝生の芽とか、隠れているOBゾーンとか、かゆいところに手が届く内容になっていて、得意になって説明して、結構、お客さんに喜ばれたりしていました。(当時は景気が良くて、チップをもらったことも何回かありました)

しかし、体力的には結構、大変で、がけの上から「7番アイアン持ってきて」とか、林の中に打ち込まれると「先に行って探してきて」とか容赦なく言われます。あと、お客さんごとにクラブの種類を覚えるのが大変で、だいだい4人1組で回りますので、4種類のウッド(当時はメタルウッドは、ほとんど普及していません。大半がパーシモン(柿の木)です)、アイアン、パターを覚えこんで、使う度に正確にバッグに戻さなければなりません。

印象に残った経験と言えば、途中で雷が鳴ってきて(ゴルフに雷は天敵です)、サイレンが鳴って、「クラブハウスに引き上げて下さい」とアナウンスが聞こえてきても、一向にプレーを止めないお客さんに付いた時は、死ぬかと思いました。「引き上げた方がいいですよ」と何回言っても聞かないのです。結局、最後までプレーして、クラブハウスに着いた時には、一緒に来ていた他のキャディは、みんなとっくに引き上げていて、「まだやってたの、雷、鳴ってたのに」と驚かれたのをはっきりと覚えています。

サークルが、このアルバイトを何年も続けてきたのは実は理由があって、キャディの仕事が終わった後、なんと無料でコースをラウンドさせてもらえるという特典が付いているからなのです。これは魅力的で、給料よりもこれが目当てで参加している部員も大勢いました。もちろんゴルフバッグは自分でかついで回ります。時間は日暮れまでオーケーなので、夏に行くと結構、長い時間プレーできます。

金曜日の夕方から出かけて2泊3日で日曜の夜に帰ってくるパターンです。土日にキャディとおまけのラウンドをして、給料はだいたい2万円くらいです。交通費もだしてもらえます。運がよければ、さらにチップがもらえることもあります。お金をもらって、さらにゴルフもして帰ってこれるという今、考えたら結構、良い条件のアルバイトですね。

ただ、このアルバイトも今年、40周年の同窓会に行った時に、現役部員に聞いたら、今はやってないということでした。恐らくセルフプレーが主流になって、キャディの仕事自体が今は減っているのでしょう。そうするとアルバイトキャディという存在自体が無くなっている可能性があるので、非常に貴重な経験をしたんだなあと感慨深いものがありますね。

10月 18 2012

私の履歴書④ 学生時代(3)

日本の大学生活と言えば、欠かせないのがサークル活動とアルバイトではないでしょうか。正直なところ、日本の大学生が大人になるのは、教室ではなくて、課外活動の方が影響が大きいのではないかと、多くの人が思っていることでしょう。私も、この点は例外ではありません。(課外活動を全くしなかった人は、就職でも不利になるというのは、あながち的外れとは言えないでしょう)

私はサークルでは、ゴルフの同好会に入りました。大人になっても出来るスポーツがいいと思ったのがきっかけです。残念ながら現在、腰痛のため、ゴルフは休んでいますので、当初の目的は達成されていませんが。私が入ったゴルフサークルは今年、結成40周年の同窓会が行われました。サークルの割には長く続いているので驚いています。

最初は、気軽な気持ちで入ったのですが、結構、厳しいので後で後悔しました。ゴルフというのは嫌でも大人の社会に入っていきますので、今、考えるとためになることも多かったです。

例えば、月例会という月に1回コースに出て成績を競うコンペがあるのですが、学生ということで、当然キャディなどつけられません。また現在のようにゴルフ場にセルフカートの備えが、ほとんど無かった時代なので、ゴルフバッグは自分でかついでプレーするのです。社会人になってからゴルフを始めた人は、自分でバッグを担いでプレーするというのは考えられないんじゃないでしょうか。(これが原因で、入部当初はたくさんいた女子部員が、半年後には半分以下になっています)

一応、サークル活動なので、ほとんどの部員がフルセットを入れています。バッグの重さは10キロぐらいにはなります。しかも、ゴルフ場は学生に対して徹底的に厳しい要求を出していて、
1 学生は打ったら必ず走ること
2 一般客が追いついてきたら、先に行かせること
3 め土袋を必ず携帯して、打った後は必ず埋めること
(め土袋とは打った後のディボットという穴を埋めるための土が入った袋です。この袋を土で一杯にして各部員が持たされます)
などを、うるさいくらいに言われます。
当時、学生を入れてくれるコースは、それほど多くなかったので、同じコースに複数の大学が重なることもあり、上記のことを守らなかったという理由で、途中で帰らされた大学もあったと記憶しています。(ゴルフ場にとっては、正式な部活も同好会も区別する理由がありませんので、全く同じように扱われるのです)

よく事情を知らない人が「学生のくせにゴルフなんて生意気だ」などと気軽に言いますが、我々のやっているプレーを知っている人は、そんなことは言いません。そもそもテニスやスキーで生意気だと言う人はあまりいないのは、不思議ですよね。私に言わせればテニスやスキーのサークルよりは、よほど厳しい状態でプレーしていると思っています。

上記の指示を守りながらアップダウンのあるコースを10キロ近いバッグをかついで走り回るのです。しかも、学生はワンハーフ(1.5ラウンド)が当たり前という時代だったので、27ホール、距離にして約9キロメートルを、この状態で回ります。

学生を入れてくれるゴルフ場は関東では栃木県や群馬県まで行かないと、なかなか無かったので、東京からだと朝は午前3時とか4時とかに出発します。終わった後は、風呂は一般客が終わった後にしか入れません。途中、ファミリーレストランで夕食をして、帰りはいつも夜10時とか11時です。

まさに強行スケジュールで、体力を使い果たします。後、家から車を借りられる人は、さらに悲惨で、この状態で行き帰りの運転をし、最後に車の無い人の家に送り迎えなどもあります。

また年に2回、春と夏に合宿がありました。合宿は5泊6日でゴルフ場にある宿泊施設に泊り込みます。上記のプレーを5日間やるわけです(最終日のみ18ホール)。終わった時はバタンキューで15時間くらい眠り続けたことがあります。

とても優雅とは言えない学生ゴルフですが、非常に社会勉強になった側面はあります。当時のゴルフ場にとっては学生は「客であって客でない存在」です。明らかに一般客とは区別した扱いですから、「あいさつの徹底」なども、うるさく言われます。生意気な年頃ですから、上級生から言われると素直に聞けないことでも、ゴルフ場から要求されていれば従わざるを得ません。そういう意味で鍛えられた部分はあると思います。

10月 01 2012

私の履歴書③ 学生時代(2)

大学は文学部出身です。法律とは全く関係がありません。そもそも学生の時は、自分が将来、司法書士になるなんて想像もしていませんでした。当時は司法書士という資格の存在すら知らなかったと思います。文学部から資格試験を受ける人は、あまりいませんので、そういう情報にも詳しくなかったのです。

私が学生時代を過ごした80年代前半は、女の子は圧倒的に文学部を選択していた時代です。女性で法学部や経済学部、ましてや理系などは非常に少なかったのを覚えています。(別に、これが文学部を選択した理由ではありませんので、念のため)。当時は、明確にやりたいことが決まっている人以外は、女性のほとんどが文学部を受験したんじゃないでしょうか。ということは、当時の文学部は女性の秀才が集中して集まってくる傾向があったので、他の学部と比較しても簡単ではなかったと思います。

私が文学部を選択した理由は、第一には歴史が好きだったこと(日本では歴史は文学部に属しています)、第二はサラリーマンにあまり興味が無かったことです。(今は違います。今となっては、一生サラリーマンでなくても、人生の一部でもサラリーマンの経験をしておけば良かったなと思っています)。

当時は(恐らく今でも)、文学部は就職が悪いので有名です。何で文学部は就職が悪いんでしょうね。私には理由が分かりませんが、別に法学部や経済学部の卒業生が自分よりも、法律や経済に詳しいと思ったことは、正直あまりありませんので、ただの偏見ではないのかと思っています。しかし、現実問題として、就職が悪いのは事実です。(比較的、就職に強いと言われているウチの大学でも、文学部はあまり良いとは言えません)。

先ほどの第二にの理由が、これで説明できます。サラリーマンを目標にしている場合は、文学部は避けるのが当時の常識だったのです。だから、文学部は男性からは敬遠されました。それで、余計に女性比率が高まってしまうのです。

法律や経済に当てはまらない文系の学科は、日本では、ほとんど文学部につっこんでしまうという無茶苦茶な状態になっています。だから、「これって文学部なの」という学科も、たくさんあります。哲学、心理学、歴史学、人類学など、他の国の大学なら独立した学部になっていそうな学科が全て文学部になっているのです。これは日本の大学がサラリーマン養成学校になっている証拠ではないかと思っています。

ようするに、サラリーマンとして就職を目指す人は法学部や経済学部、商学部などに行きなさい、そうでない人は、まとめて文学部に行けば良い、という発想です。大学は興味のある学問をやる場所とは、大学関係者自体が考えていないという、良い例ではないでしょうか。こういう発想に反発して文学部に行ったという側面も私にはあるのです。

ちなみに、私は大学ではイキリス史を専攻しました。歴史に興味があったので、それ以外にもアメリカ史やフランス史の講義なども取っていました。もちろん日本史も好きですが、高校までに散々やったので大学では西洋史を中心に講義を受けていました。

それ以外に、社会に出てから必要だろうと思って、自分で経済関係の本を、やたらと買って読んでいました。経済学部なんかに負けないという気持ちも多少あったと思います。結局、大学を卒業する頃には、経済学部の人間と話をしても全く困らなくなる程度にはなりました。分野によっては私の方が詳しいと思うものもありました(ジョン・メイナード・ケインズなど)。でも法律の本は読んでいなかったですね。何故でしょう。当時の私は必要性を感じていなかったことになりますが、今となっては忘れてしまっています。タイムマシンでもあったら、当時の私に質問してみたいです。

9月 25 2012

私の履歴書② 学生時代(1)

私の通った大学は東京、吉祥寺にある成蹊大学です。吉祥寺は、かなりの繁華街なので、そんなところに大学があるのかと思われるかもしれませんが、もちろん街中ではなく郊外にキャンパスがあります。と言っても、15分も歩けば吉祥寺の駅に着く程度の距離です。

簡単に大学の紹介をしておくと、結構、キャンパスは広くてきれいです。東京の大学キャンパスは土地が高いせいもあってか、せまいところが多いですが(特に私立大学は)、成蹊大学はかなり広いですね。ケヤキ並木が有名で「新東京百景」に選ばれています。

三菱グループがバックアップして創立されたという背景があるので、大学の知名度の割には就職が良いとの評判があります。もっとも、私は、サラリーマンはなりませんでしたので、そのメリットは享受できていませんが。たまに友人に会うと結構、出世していたりするので、「オレもサラリーマンになっときゃ良かったかな」と、ちらと思うことがありますが、すぐに、「やっぱり、オレがサラリーマンになったら上司とそりが合わなくて、出世はしていないだろうな」と思い直します。

卒業生で有名人と言うと、元首相の安倍晋三(もう一度、首相になるかもしれませんので応援してます)、元日弁連会長の梶谷剛。アナウンサーの高島彩、作家の石田衣良・桐野夏生、俳優の中井貴一・鶴見辰吾などでしょうか。
ちなみにテレビに出てくるような有名人ではありませんが、実業界には滅法強く、現社長が卒業生である企業は、アサヒ飲料、富士重工、中部電力、西部鉄道、紀伊国屋書店、森永乳業、集英社、小学館、堀プロ、敷島製パン、エイデンなどがあります。

さて、私が学生生活をおくったのは1980年代初めです。当時はもう70年代に荒れ狂った学生運動は消滅していました。他の大学の友人にも聞いているし、実際に他の大学のキャンパスにも、いくつか足を運んだことがありますので、私の大学に限ったことではないと思います。キャンパス内でヘルメットをかぶったデモなどに、お目にかかることはありませんでした。

東京で一人暮らしを始めた私は、まず下宿を探しました。見つけたのは2階建て6畳の木造アパートです(6部屋ありました)。小さいですが風呂はついてました。もちろんエアコンなどはありません。当時は、4畳半で風呂なしというアパートも結構あり、これでも「ぜいたくだ」と非難されることがありました。友達が風呂に入りに押しかけてきたことも何度かあります。今では考えられないですね。

訳あって、社会人になった後も学生と接する機会が多かった私は(理由は、おいおい説明していきます)、もはや風呂なしアパートというのは学生の下宿では、かなりの少数派になっていること知りました。おかげで銭湯が廃業していると聞きます。最近ではエアコンも付いているのが当たり前だそうです。いやあ時代は変わったものです。

下宿の場所は、井の頭公園の裏手になります。井の頭公園と言えば、頻繁にテレビドラマの舞台になっていることで知られています。テレビの画面で池のある風景を見覚えがある人も多いでしょう。(井の頭公園とは、吉祥寺の街の裏手にある東京都内でも有名な公園のことです。吉祥寺のシンボルのような存在になっています。夏はカップルが滅茶苦茶に多いので目のやり場に困ります。)

学生時代は、「アパートの窓から井の頭公園が見えますよ」と言うと、「え、あのテレビによく出てくる場所ですか」と言って、驚かれたものです。実際、風景のきれいな場所なので、よく散歩しました。井の頭公園周辺には割と芸能人が多く住んでいるので、たまに会うこともあります。

今と違って学生の下宿にはエアコンが無いのが当たり前の時代ですから、真夏や真冬は、とても快適とは言えませんが、その分、歩いて行ける範囲に吉祥寺の街や井の頭公園があったのは、周りの環境は快適だったと言えるでしょう。

9月 19 2012

私の履歴書① 高校時代

さて、このブログでは今まで自分のことについて話をしたことが、ほとんど無かったのですが、「私とは、どんな奴なのか」というのは相談する人から見ても関心のあることだと思いますので、これから少しずつ、話をする機会を増やしていこうと考えています。では、まず高校時代から、いきましょう。

私は地元の私立東海高等学校の出身です。中高一貫の6年間の学校ですが、高校からも募集していますので、高校から入学してくる生徒もいます。私は、中学からの進級組です。一応、地元では進学校として知られていますが、なかに入って6年過ごした感想としては、「とても進学校とは思えないな」という印象です。

一般的な進学校のイメージというのは、先生は、いつも勉強のことだけでを要求して、生徒は全部お互いが競争相手でギスギスしていて、補修がやたらと多く組まれていて遊ぶ時間も無い学園生活というものでしょうか。

しかし、私が経験した高校生活は、上記とは真逆のものでした。そもそも、本当に上記のようなイメージどおりの進学校はあるんでしょうかね。何だかマスコミが勝手に広めた幻想のような気がするんですが。

私の通った東海高校の現実は、先生はいい加減で、しょっちゅう授業が脱線して決められた範囲まで終わらないことがよくあり、生徒は先生をからかうことが良くあり授業中に爆笑が起こることも珍しくなく、部活や遊びも結構、熱心で、文化祭や体育祭などかなり盛り上がり、生徒間の仲間意識も強く(卒業してからも続いています)、そして何より、「勉強は自分でやるものだ」という意識が先生にも生徒にも強く、無理やり試験や補習をやらされたという記憶が、ほとんどありません。

こういうと、「お前は成績が良かったからだろう」と誤解する人がいるかもしれませんが、私の高校時代の成績は決して良くありませんでした。中学時代は上位だった時期もありますが、良く言われる6年間の中だるみというやつで、高校時代は遊びの方に熱心で成績は下がり気味でした。

普通は大学に入ってから覚えるような遊びを、高校時代に一通りやっていました。麻雀やビリヤードなど通いつめたこともあります。試験期間中にボーリングや映画に行ったこともありました。これでは、成績が良くなるはずがありませんね。

しかし、こんな状態でも、学校から勉強を強制された覚えはありません。ある意味、不親切で放任主義という見方もあるでしょう。でも暗い学校生活では無かったことは断言できます。私は、東海高校の放任主義で自由な校風をとても気に入っていて同時に感謝もしています。生徒の方から、「どうしたら良いか」と訪ねてきたら助け舟はだしてやる、そうでない限り放っておくというのが基本的なスタンスだったと思います。

ある時、先生がこんなことを言っていたのが、とても印象に残っています。
「東海が、補習や試験をもっと増やして、学校が生徒にもっと強制したら、おそらく進学実績はもっとよくなるだろう。でも生徒の自主性という大切なものが失われてしまう。」と。

良くも悪くも私は、こういうスタンスの学校に6年間も通ったおかげで、割と自由な物の考え方をするように育ったように思います。サラリーマンや公務員ではなく、独立開業の司法書士という仕事を現在やっているのも、少なからず高校時代の影響があるのではないかと感じています。

9月 05 2012

民事訴訟の自白制度は領土問題の参考になる

裁判における自白は、実は刑事訴訟と民事訴訟では取り扱いが異なります。一般的には、刑事ドラマなどの影響で刑事訴訟における自白のイメージが普及しているように感じます。しかし、実際の件数で比較すると、刑事訴訟の何倍もの数の民事訴訟が行われているのが現実なので、ここで民事訴訟の自白について説明しておきましょう。

刑事訴訟で言う自白とは積極的に罪を認めることを指しますが、民事訴訟では積極的に相手の言い分を認めること以外にも擬制自白という制度があります。擬制自白とは、相手の主張に対して何の反論もせずに黙っていると、それは相手の言い分を認めたのと同じことだと裁判所が認定する制度です。

この制度がある為に、民事訴訟では相手の主張に対して黙っているのは非常にマズイやり方になります。きちんとした理屈が考え付かなかった場合でも、とりあえず、相手の言い分には反論しておくという態度が時には必要になります。(理屈は反論した後で、ゆっくり考えれば良いのです)

よく、裁判所から訴状が届いたのに何もしないで放置しておく人がいますが、これは相手の言い分を全面的に認めたとみなされてしまい最悪の結果を招きます。この状態で判決が出れば全面敗訴、間違いなしです。

この制度の怖いところは、例え架空請求であっても、相手が黙って反論しなければ、裁判上は架空請求が事実として判決がでてしまうことです。

何故、このような仕組みになっているかというと、もともと民事訴訟という制度が明治時代に西洋から輸入されたものだからでしょう。この擬制自白という考え方は、まさしく西洋的なものの考え方です。ようは、「言いたいことがあるなら、ちゃんと言え。黙っている方が悪いんだ。」という考え方です。

実は中国人や韓国人も、この点に関しては、はるかに日本人よりも西洋人に近い感覚を持っています。彼らも、自分の主張は、例え根拠があろうとなかろうと、とりあえず徹底的に主張し反論してきます。裏をかえせば、そうしないと相手の言い分が全部通ってしまうような社会で暮らしているということです。日本人のような、相手の立場を考えて、ゆずりあうような社会の方が実は非常に珍しく、世界では理解されにくいのです。

もちろん、日本人の「ゆずりあいの精神」自体は、日本社会の安定に寄与していますから、相手が日本人ならば、裁判にならない限り、そのままでいいと思います。しかし、外国人と主張が食い違った場合は、民事訴訟のことを思い出して、ちょうど訴訟をやっているのと同じ感覚で接すると良いのではないかと思います。

そういう意味で、日本人が外国人との接し方を理解するのに、実は国内の民事訴訟は非常に参考になります。まさしく西洋の考え方を基にして作られた制度ですから、彼らの考え方を知るには、これほどのいい教材はありません。

先ほども紹介した、「例え架空請求であっても黙って反論しなければ、それが事実として認定される」という民事訴訟の考え方は、竹島問題や尖閣諸島問題を考える際には非常に参考になるのではないかと思います。日本人も外国人を相手にする時は、日本流では通用しないということを国内の民事訴訟から学びましょう。

5月 28 2012

自己破産と特定調停

専門家の立場から判断した場合、どう見ても自己破産しか解決方法が無い、という人がいます(自己破産なら助かるという意味でもあります)。しかし、本人が、どうしても納得しない場合があります。このような時、どうすれば良いのでしょうか。

世間体を気にしている場合は、「戸籍には載らない」とか、「会社にも知られない」、「選挙権も失わない」などを説明することによって、気持ちが変わることも多いのですが、問題なのは、現時点で支払能力が全く無いにもかかわらず、個人再生や任意整理などの分割払いの方法を強く希望される人がいることです。

上記のようなケースは決して珍しくなく昔からあります。このような場合、私は特定調停をすすめることにしています。何故なら、支払えないということを本人に納得してもらう以外に方法が無いからです。

特定調停を自分でやることによって、支払能力が足りないことを自覚してもらうのが目的です。まともな調停委員に当たれば、1回目の期日で、本人の支払能力に対して説明した上で却下してくれることが多いでしょう。本人も、裁判所が無理だと言っているので、納得しやすいのです。やるだけのことをやってみたけど、ダメだったというのも納得するには重要なことです。

特定調停の場合、例え却下されても費用は数千円で済みますし、本人が不充分な気持ちのままで、専門家が破産を強制することと比べたら、安いものではないでしょうか。

また、調停委員が甘い人で、普通に考えたら無理な分割払いを認めてしまった場合は、どうするのかという指摘がありそうですが、実は、これもあまり問題にはなりません。

そもそも、無理な分割払いを認めた調停委員が一番の責任を取るべきですが、仮にそういうことがあっても、一度、分割払いを始めてみて、それでも、やっぱり支払えなかったという現実に直面することで、本人が、「ああ、あの時、司法書士さんが言ってたことは本当だった。やっぱり自分には支払いは無理だった。」と納得することが出来ます。それから、自己破産することも可能なのです。むしろ、ぎりぎりまで支払の努力はしたということで、裁判所の破産係の印象も良くなると思われます。

実際に、特に専門家の相談を受けずに特定調停を始めた人が、途中で支払が出来なくなって、その時点で始めて専門家の相談を受けに来るという事例は思ったよりも多いです。従って、特定調停をやった後に結果的に破産に至るのは、全国単位で見れば、かなりの数にのぼっていると思われます。それでも特に不都合は無く、破産が認められています。

債務整理の相談というのは、どれだけ法律的に正当であっても、むりやり強制するのは正しい解決方法ではないと私は思います。もちろん、専門家の立場で説得するのは必要でしょう。しかし、それでも納得できないと言う人は、少数ながら、どうしても存在します。そのような人には上記のような柔軟な対応も時には必要ではないでしょうか。

5月 22 2012

ニコスカードの過払訴訟

三菱UFJニコス株式会社というクレジット会社があります。まあ、ニコスカードと言った方が分かりやすいかもしれません。結構、メジャーなクレジット会社ですから、ご存知の人も多いでしょう。今、ここと過払金訴訟で争っています。

以前は、メジャーなクレジット会社は訴訟を提起すれば、あまり争わずに割りと早い段階で満額に近い金額で和解できたものでした。しつこく争ってくるのはオリコくらいだったでしょう。

ところが、最近はクレジット会社であっても経営が苦しくなってきたせいかどうか分かりませんが、結構、争ってくるようになりました。

今回も、ニコスは弁護士を立てて争ってきました。弁護士を立てたということは、そこで費用が発生しているでしょうから、そう簡単には和解できないだろうと予想されます。実際に、第1回口頭弁論前に20ページ近い準備書面を送りつけてきました。まさに、戦う気、満々です。

こちらも負けじと、かなり時間をかけて反論の準備書面を書いて、弁護士事務所に送りましたが、さて、結果はどうなりますか。

ニコスとしては、例え弁護士費用を払ったとしても、それ以上に過払金を減額してもらわないと困るという会社の方針なのでしょう。もう、素直に訴訟の金額を払う訳にはいかないということを明らかにした訳です。

それでも、こちらとしては、依頼人の期待に答える為にも、なるべく満額に近い金額で和解に持ち込む為に、いろいろ反論していくつもりです。

この件に関しては、また後日、報告したいと思います。

5月 15 2012

成年後見と過払金

ご家族の中に長期間、消費者金融やクレジット会社との取引を行なっていた人がいて、その人が認知症になっていた場合、どうしたら良いか分からないという相談が最近、増えてきています。高齢化社会が進んでいる以上、避けられない問題かもしれません。

このようなケースでは、取引をしていた家族は高齢の場合が多いので、取引期間も長く過払金も高額になっているケースが多いので、他の家族も簡単にはあきらめられないでしょう。特に今は日本中に不景気の嵐が吹き荒れている状況ですから、苦しい家計の少しでも足しにしたいと考えるのは、ごく自然な行動です。

では、どうしたら良いのかと言うと、認知症になっている家族の為に成年後見人をたてるという方法があります。

成年後見人とは自分で判断の出来なくなった人の為に、家庭裁判所の審判で選任される後見人のことです(厳密には、これ以外にも任意後見があります)。成年後見人は、判断の出来なくなった本人に代わって各種の法律行為をすることが出来るようになります。

以外に知られていないようですが、認知症の進んだ人は法律家に仕事を依頼することが出来ません。仕事を依頼するのは法律上は委任契約と言いますが、委任契約は、判断の出来る人が自分の意思で行う必要があるのです。従って、認知症の人が過払金の請求者の場合、もちろん自分で裁判所での質問に答えることは出来ませんので、まさに八方ふさがりになってしまいます。

従って、法律家に仕事を依頼する為にも後見人が必要になります。後見人が本人に代わって法律家と委任契約を結ぶことになります。

« Prev - Next »